日本イエス・キリスト教団 新座教会

キリストの十字架に現された神様の愛と救い、生命の尊厳のメッセージを聖書から伝える。

聖書って?

What is the Bible?

教会ってどんなところ?

What is a church like?

忙しいからこそ、教会に行く

「この忙しい中、クリスチャンは、せっかくの日曜日に教会に行くの?」と思っていませんか?
しかし、クリスチャンは忙しいからこそ、日曜日は時間を作って教会に行くのです。なぜ?
「忙しい」という字は、心を亡くすと読めます。忙しくて、心が空っぽになるから、休みが必要になります。
皆さんはときには遠出して、自然を満喫しに行くことがありませんか。
自然は、いつも変わらずあなたに微笑みかけてくれます。その心地よさに、心が満たされますよね。
実は、その微笑みに、あなたを喜ばせようと、自然を美しく創造された神様の愛が込められているのです。
クリスチャンが教会に行くのは、この神様の愛に満たされ、安らぎを得るためです。

わたしたちへの愛に満ちたキリスト

「神様の愛」と言われてもピンと来ないかもしれません。
そこで、神様はわたしたちがはっきりわかるように、愛を現して下さいました。それが、イエス・キリストです。
イエス・キリストは、人々からねたまれ、不当な裁判によって十字架にかけられたのに、「父よ、彼らをおゆるしください。
彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と言われたのです。私利私欲に満ちた政治家、企業家。
確かにみんな、何をしているのかわからずにいるように思います。
わたしたちも心の中の「自分さえよければ」という思いが人を傷つけます。
そして、どうしてもその思いを消せない、自分自身が何者かさえわかりません。
イエス・キリストは、そんなわたしたちの一番の理解者となるために、人となられてこの地上に現れて、
自分自身でさえ避けたくなるような人の弱さを体験して下さったのです。
ですから、わたしたちは彼の愛によって慰め癒され、心を満たされるのです。

自分の心を取り戻すために

それだけではなく、わたしたちの醜い心の悪の刑罰を、身代わりとなって十字架で受けて下さったのです。
わたしたちは十字架の愛によって心をきよめられ、本当の自分を取り戻すことができるのです。
聖書にはそんな愛のメッセージがたくさん詰まっています。イエス・キリストはこう言われます、
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」。
あなたもぜひ、心のリフレッシュのために、自分の心を取り戻すために、教会に来てみませんか。
教会はいつでも、あなたの来られるのをお待ちしています。

聖書ってどんな本?

What kind of book is the Bible?

聖書は永遠のベスト・セラーと言われています。日本でも、毎年数百万部が売れています。
ところが、聖書にはどんなことが書かれてあるのか、わたしたちに何を語りかけているのかは、意外に知られていません。

聖書の言葉と人生の目的

聖書の第一ページ、初めの言葉はこう記されています。
「はじめに神は天と地とを創造された」。(創世記1章1節)
神が天と地とを創造された。それは偶然にこの世界ができ、存在しているのではないということです。そして、わたしたち人間も、偶然に生まれてきたのではなく、明確な目的のために、神様が創造された存在だということです。
では、神様はどのような目的をもってわたしたち人間を創造されたのでしょうか。
「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」。(創世記1章27節)
なんと、わたしたちは神のかたちに創造されたのです。
ところで、ここで言われている「かたち」ですが、英語では“イメージ”となっています。
それでは、神様のイメージとは?いろいろありますが、聖書は神様の最大のイメージを次のように語っています。
「神は愛である」。(>ヨハネの第一の手紙4章8節)
つまり、神様は愛をイメージとして、わたしたちがお互いに愛し合うようにと創造されたのです。
しかし、人間の愛は、神様のイメージである愛とは違うように感じます。人は愛のゆえに争いを起こすからです。

神様の愛

それでは、神様の愛とはどのような愛でしょうか。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」。(イザヤ書43章4節)
たびたび英語を使って恐縮ですが「高価」は“プレシャス”となっています。英語で、高価を意味するもうひとつの単語が“バリアブル”。“バリュー”と言うとよく聞かれるでしょう。
バリューは金銭的価値が高くて有用なものに使われるのに対して、プレシャスはそれ自体が非常に高い価値をもつことを表し、金銭で評価できないプライスレスの意味も含まれます。
つまり神様は、わたしたちに才能がある、地位が高い、成功者である。そうしたことではなく、ありのまま、存在そのものを「高価で尊い」と愛して下さるのです。
聖書はこのように、第一ページから一貫して、わたしたちの人生の意味と目的-神様によって、愛し合うために造られた-を語っています。
ところで、わたしたちの愛は、バリューで評価する愛でしょうか。それともプレシャスとして受け入れる愛でしょうか。
わたしたちは本当の人生の目的も、神様のことも知らずに、道を外れて誤った生き方をしているのではないでしょうか。
では、どうすればいいのでしょうか。ご安心下さい。聖書は解決の道も明確に示してくれています。

十字架の愛による救い

「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった」。(創世記2章7節)
人生の目的を知り、愛し合うようになるためには、創造者の力が必要です。何よりも、愛されることなしには愛することはできません。ですから、神様はわたしたちに「愛」という命の息を吹き入れられて、人は真に生きる者として下さるのです。
神の御子イエス・キリストは、わたしたちのために十字架の苦しみを受け、命を犠牲にされてまで愛を貫き通されることにより、本物の“プレシャス”の愛を吹き入れて下さいます。
「十字架の愛」。これが聖書の最大のメッセージです。神様はわたしたちに人生の目的を教えて下さるだけではなく、逸脱した者たちをそのままにされることなく、救いを与えて下さるのです。なんとすばらしい恵みでしょうか。そしてわたしたちがこの愛をキリストによって宿して生きていくことを、神様は心から願っておられるのです。

イエス様ってどんなお方?

Who is Jesus like?

人は死を直前にすると、真実な本心を告白するものです。
そういう意味で、聖書が記している、イエス様の十字架の上での7つの言葉から、イエス様の真実な御姿を知ることができます。
そのイエス様の御姿こそ、聖書が最も伝えたい真実です。

第一の言葉(ルカによる福音書23章34節)

「そのとき、イエスは言われた、『父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのかわからずにいるのです』」。
神の御子を十字架にかけ、あざ笑い、つばきをかけ、雑言をあびせる、そんな大罪を犯す人々のために、イエス様はその苦しみの中にあって「彼らをおゆるしください」と祈られました。親が子を愛のゆえにゆるすように、どんな悪人であってもイエス様は子として受け入れ愛し、ゆるして下さるのです。

第二の言葉(ルカによる福音書23章39~43節)

「『お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない』。そして言った、『イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください』。イエスは言われた、『よくよく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう』」。
どんな悪人でもイエス様は愛される実例がここにあります。何の償いもできない、家族からも見捨てられたであろうみじめな強盗が、ただ自らの罪を認め、イエス様が御国(天国)の権威をもつ神の御子と信じ受け入れた、そのことだけでゆるされ、イエス様と共に天国に入ると言われるほど愛を受けたのです。

第三の言葉(ヨハネによる福音書19章26~27節)

「イエスは、その母と愛弟子とがそばに立っているのをごらんになって、母にいわれた、『婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です』。それからこの弟子に言われた、『ごらんなさい。これはあなたの母です』。そのとき以来、この弟子はイエスの母を自分の家に引きとった」。
イエス様は、そばに母マリヤと愛弟子ヨハネが立っているのをごらんになられ、子を失う母と、師を失う弟子のそれぞれを慰めるため、マリヤとヨハネが家族となるよう託されました。教会はこのように、苦しみの中にイエス様による慰めといやしが注がれ、家族同様の暖かい交流をもつことができるのです。

第四の言葉(マタイによる福音書27章46節)

「そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と言われた。それは『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」。
戦争、環境破壊、家庭崩壊、そうした世界の有様を見ると、わたしたちは神様から見捨てられるべき愚かな存在であると思います。ところが、神の御子イエス様がそのようなわたしたちの身代わりとして、神様から見捨てられた存在となられました。そのゆえにわたしたちはすべての罪から救われるのです。

第五、第六の言葉(ヨハネによる福音書19章28節、30節)

「イエスは今や万事が終ったことを知って、『わたしは、かわく』と言われた。それは聖書が全うされるためであった」。
「すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、『すべてが終った』と言われ、首をたれて息をひきとられた」。
「渇く」とは完全に満たされている神の御子イエス様が、一切を失われた、つまり、罪の代価を支払い尽くされたということです。それで「すべてが終った」と言われました。それは完了したという意味です。ですからこの十字架が救いの全ての条件を満たし、全世界の、あらゆる時代の人を救うことができるのです。

第七の言葉(ルカによる福音書23章46節)

「イエスは声高く叫んで言われた、『父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます』。こう言ってついに息を引きとられた」。
すべての人の罪を身代わりに負われたために、神様から見捨てられ、一切を失われたにもかかわらず、なおイエス様は愛と信頼を失われませんでした。「父よ、…ゆだねます」と。ですからどんな大きな力も、死も、神様の愛と救いからわたしたちを引き離すことはできないと聖書は断言しています。

イエス様の真実な御姿、それはどんな悪人をも愛しゆるされ、身代わりに苦しみを受けて救いと慰めを与えて下さるお方。
イエス様を信じ受け入れるなら、どのような罪、苦難からも救われます。その愛と救いは何があっても、決して失われません。

人間の問題とは?

What is a human problem?

誰しもが幸福と平和を望みながら、多くの人が悩みや不幸、悪の問題に苦しんでいます。
聖書は、人間の罪こそがその原因であると語っています。

罪とは何か

「すべて罪を犯す者は、不法を行う者である。罪は不法である」(ヨハネの第一の手紙3章4節)。
罪は不法を行うこと、つまり法律違反ということは、おわかりと思います。しかし、多くの人は「わたしは法を犯したことはない」と思われるのではないでしょうか。しかし、聖書は続いて次のように語っています。
「すべて兄弟を憎む者は人殺しであり」(ヨハネの第一の手紙3章15節)。
作家の三浦綾子さんが次のように記しています。
「泥棒と悪口を言うのと、どちらが罪深いか、わたしの教会の牧師は『悪口の方が罪深い』とおっしゃった。大事なものを取られたとしても、それは『惜しいことをした、残念だ』という痛み程度にとどまるだろう。だが、人に悪口を言われて死んだ人の話は時折聞く。わたしたちの何気なく言う悪口は、人を死に追いやる悪の力があるのだ。」
それなのに、わたしたちはその罪深さに胸を痛めることなく、罪を罪と感じることができません。他人から悪口を言われるととても心が痛むのにです。これでは、どれだけ幸福や平和を願っても、実現することはできないでしょう。
どうしてこのようになってしまったのでしょう。

罪の原因と結果

「すべて罪を犯す者は罪の奴隷である」(ヨハネによる福音書8章34節)。
聖書は、罪を犯すのは罪の奴隷となっているからと語ります。
小学校でガキ大将が「今日は机だけ並べて、掃除をさぼらないか」と提案する。そのとき「いや、ぼくは掃除をする。当番だから」などと言う者がいれば、たちまち仲間はずれにされてしまいます。みなさんも、正しい人、清い人を煙たく思うことはありませんか。罪に支配されて奴隷となった者は、自己中心となり、正しい人、清い人を嫌い、仲間はずれにします。さらには聖なる神様を嫌い、無視し、存在を認めません。
聖書に記されている「罪」は「的外れ」という意味の言葉です。神のかたちとして造られたはずのわたしたちが、的、目的であるはずの神様からはずれてしまったため、罪に支配されて奴隷となってしまったのです。
そして、罪の奴隷となった結果を聖書は次のように語ります。
「罪の支払う報酬は死である」(ローマ人への手紙6章23節)。
肉体から命が離れることが、肉体の死です。すると数日もすれば肉体は腐ります。人が神様から離れることが罪ですから、罪は命の源から引き離し、人を不幸と悪で腐敗させるのです。これが罪の結果としての死です。恐ろしいことです。

罪からの救い

しかも、聖書はすべての人が罪人だと語ります。
「すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」(ローマ人への手紙3章23節)
恐ろしい病気ほど、自覚症状がないままに人をむしばみます。ガンがそうです。あなたに罪の自覚症状がなかったとしても、罪は確実にあなたをむしばみ、破滅へと陥れているのです。
それでは、どうすればいいのでしょうか。
罪が神様から離れてしまった結果なのですから、罪から救われるためには、神様のもとに帰ればいいのです。
しかし問題があります。帰りたくても、帰り道も、帰るべき神様のこともわからないということ、神様を嫌い、無視した者がゆるされるのかということ。さらに、罪の奴隷となった者が、どうやって罪から解放されて自由となれるかという問題です。
これらの問題を、すべて解決して下さるのがイエス様です。
「彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」(ローマ人への手紙3章23節)。
イエス様が身代わりのために人となられて、十字架で犠牲になられたこと。それは、愛なる神様を教え、神様のもとに招き、罪のゆるしを与え、あがないの代価を支払わるためです。
罪を認め、イエス様の救いを信じて受け入れること、それで、あなたの罪の問題がすべて解決されるのです。

^